母が亡くなりました。

2024年12月9日0時10分、母 御姓小波が逝去しました。

癌を患っていた母は大分市のアルメイダ病院で旅立ちました。

私は最後の最後まで母の手を握っていました。

「母さん、頑張って。」と何度も声をかけました。

本当に苦しそうだった。

自分がずっと手を握っている間に、母は息をひきとった。

母の最期を看取れて良かった。

この写真は、1979年8月、家族四人で鹿児島に旅行に行った時に撮ったものです。

母と兄と私が写り、父がシャッターを切りました。

母35歳、私は9歳でした。

この頃は、この幸せがずっと続くものだとばかり思っていました。

この二年後、当時クボタ鉄工大分営業所の所長だった父が会社のことで多額の借金を背負います。

毎日のようにヤクザのようなサラ金の取り立てが家に来て、怒鳴り声をあげていました。

ア○ム、プロ○ス、アイ○ル・・・

信じられないと思うかもしれませんが、家族で写真を撮ったのはこれが最後なんです。

これ以降、楽しいことがなかったから、「家族で写真を撮ろう」とかいう感覚がなかったんです。

サラ金は毎日のように取り立てに来るし、生活費も工面できない。

その月の生活費が工面できなくて泣いている母を何度も目にしました。

もう本当にどうしようもない状態にきていました。

そして忘れもしないその一年後、父が「宮崎の知り合いの家に行く。」と言って、学校を休んで家族四人で宮崎に行きました。

二日間ホテルに泊まり、突然大分に戻り始めました。

車の中で父から「実を言うと、一家心中しようと思った。お前ら二人を見ていると、死ぬなんてできなかった。」と車の中で聞かされました。

そういえば、海沿いばかり走っていることに気づきました。

まだ13歳だった自分には本当に悲しいことでした。

後に分かったことですが、その時にホテルに泊まったお金も消費者金融から借りたものでした。

だから父は本当に死ぬ気だったのだと思います。

でも、父を説得してくれたのは母でした。

母には常に「子供二人を守らなければいけない」という思いがあったようです。

大分に帰った後、大分市の西田収弁護士に救ってもらいました。

私はまだ弁護士という言葉すら知りませんでした。

当時、民事再生手続きという制度はなく、破産宣告しかないと弁護士から言われました。

それから住んでいた光吉の家は大分地裁に差押えられ売却。

ある日、学校から帰ってきたら、家にあるものほとんどに差押えの赤札が貼られていました。

そして、自分が法律家になろうと思ったのもこの頃でした。

「もし大人になるまで生きてたら、法律家になって困った人を助けよう。」と思うようになりました。

母はどんなに辛い時でも私たち兄弟二人を守ってくれました。

本当に母には感謝しています。

母さんがいたからここまでやってこれた。

母さん、今までありがとう。

産んでくれて、育ててくれてありがとう。

母さんの子供で幸せだった。

母さんも天国に行って幸せになって欲しい。

そして、僕ら兄弟を天国から見守っていて欲しい。

自分は誰よりも立派な行政書士になってみせる。

酸素マスクを付けている母の前でも誓った。

って、この前もこんなこと書いたような気がする。

もう12月も半ばだけど、今年は辛いことばかりだったなぁ。

困っている人、貧しい人は救ってやらなければいけない。

守ってやらなければいけない。

自分に関わった方すべてに自死なんて絶対にさせてはいけない。

バッジを付けている法律家として、誰にも恥じない人生を送っていく。

母さん、天国から自分を見守っていてくれ。

2024年12月9日
特定行政書士 御姓啓二



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